*ロシアを主体とした系譜

*ボスポラス・ダーダネルス海峡はトルコ海峡と記す


♦️:ロシアによる地中海への勢力拡大

♣️:列強によるロシアの勢力抑制


 1696年 ピョートル1世は海陸両面からアゾフ海に進出する(南下政策)

----------18世紀----------

 1700年 コンスタンチノープル条約(露土戦争(86-00)の終結によりアゾフ海の領有権確定)

 1721年 ピョートル1世の宣言によりロマネフ朝のロシアから、ロマネフ朝のロシア帝国となる

 1768年 エカチェリーナ2世、不凍港の獲得を目指し地中海に進出(秋に収穫した麦の貿易etc.)(第一次露土戦争)

♦️1774年 第一次露土戦争(68-74)に勝利、キュチュク=カイナルジ条約が結ばれトルコ海峡の航行権を得る(1776年セヴァストポリの軍港建設に着手)

第二次露土戦争(87-91)によりロシア、クリミアを併合


----------19世紀----------

♣️1809年 列強間の取り決めにより、トルコ海峡、各国の航行禁止(アンシャン・レーグル)

 1815年 ウィーン議定書(ウィーン会議)ナポレオン1世のために混乱した欧州諸国の、秩序再建を図る会議(神聖同盟)

♦️1821年 ギリシア独立戦争(希英仏露🆚土埃)希英仏露が勝利して、ロシアはトルコ海峡の航行権を得る(1828、露参戦)

♦️1833年 第1次エジプト=トルコ戦争(埃英仏澳🆚土露)トルコへの支援の代償としてウンキャル=スケレッシ条約を結び、トルコ海峡の航行権を独占する

 1839年 第2次エジプト=トルコ戦争(トルコの敗北が濃くなる)(エジプトは小アジアで権勢を強め関税を設定、イギリスは貿易路の確保のため独自外交に向かう)

 1840年 ロンドン会議→5カ国海峡のための準備。イギリスはウィーン体制から離脱し、植民地政策を進める(アヘン戦争の最中)

♣️1841年 5カ国海峡協定、ウンキャル=スケレッシ条約を破棄各国軍艦はトルコ海峡の運行禁止1920年まで続く(英ヘンリー・ジョン・テンプル卿、『インドの道』の確保、パクスブリタニカの頂点)

 1848年 ウィーン体制崩壊

 1851年 後のナポレンオン3世。カトリック教会の支持基盤のため、エルサレム聖地管理権をオスマン帝国から奪う

♦️1853年 ロシアは、オスマン帝国擁護との理由で同盟を申し出る。拒否され、宣戦布告。クリミア戦争勃発(名目はギリシア正教徒の保護)

♣️1856年 クリミア戦争にロシアは惨敗。セヴァストポリ陥落。パリ条約が結ばれる(パリ会議、ロンドン会議の再確認)ナポレオン3世らにより海峡の運行禁止は維持される

 1858年 アイグン条約(アロー戦争に乗じた不平等条約、ロシアは黒龍江左岸の領有権、沿海州は共同管理権を得る)

 1860年 北京条約を結ぶ(黒龍江のウラジオストク港を得る...冬は凍る)

♦️1877年 露土戦争 バルカン半島へ。ロシアはオスマン帝国に勝利。ボスニア内のセルビア人や、セルビア公国の正教徒の保護を理由とする。サン・ステファノ条約を結び、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアのオスマン帝国からの独立、ブルガリアの自治を承認する。ロシアはブルガリアを保護下に置き南下の足がかりを得る

♣️1878年 ベルリン条約、ドイツビスマルクらによる取り決め。オーストリア(澳地利)ハプスブルグ家によるボスニアの管轄、イギリスによるキプロス島を管轄、ロシアの海峡近郊の動向を監視ベルリン会議


----------20世紀----------

 1904年 極東アジアの足がかりを模索する。日露戦争

 1911-13年 バルカン戦争(ロシア、パン・スラブ主義によるバルカン同盟vsオスマン帝国)澳地利を牽制

 1914年 第1次世界大戦(英仏露vs独土澳、ボスニアの独立機運→サラエボ事件)

♦️1916年 サイクス=ピコ=サゾノフ協定:トルコ海峡をロシア領とする協定が締結

🔺1917年 ロシア革命により、トルコ海峡の権利が消滅

 1920年 セーブル条約にて、トルコ海峡は国際管理へ(80年ぶりの解放)

 1923年 ローザンヌ条約、海峡はトルコの管理となる(各国の航行は維持される)

 1933年 モントルー条約(イタリア軍艦の脅威から各国、8インチ(20.3cm)以上の口径の艦砲を搭載する主力艦は通過できない)

 1939年 ドイツ:ポーランドへ侵攻(第2次世界大戦へ)

ソ連:ポーランド、フィンランドへ侵攻、国際連盟除名

 1942年 ドイツ:セヴァストポリ占拠

 1943年 ソ連:セヴァストポリ奪還

 1991年 ソ連崩壊 セヴァストポリ、ウクライナへ帰属

 2014年 ロシア:クリミア侵攻

 2022年 ロシア:ウクライナ侵攻 

出典:

『ロシア史』山川出版 2002

『世界史の窓』https://www.y-history.net/appendix/wh0602-052.html#wh1201-019